こんにちは。
50代からの図太くラクに生きる人間関係をテーマに活動している欅原路子(けやきはらみちこ)です。
・仲の良い夫婦を見ると、みじめになってしまう
・子供が巣立っていくことで、空っぽになってしまった
・親子関係がうまくいっていない
・自分に自信が持てない
・ひとに頼ることが出来ず、つい1人で何とかしようと頑張ってしまう
・親であるとか経営者であるとか教師であるとかetc.の立場上ひとに頼れない
・強がりを強がりだと感じることさえ出来ない
・ああすれば良かった、こうしていればという後悔が頭の中をグルグルしている
・親から言われたことがいつまでも頭から消えない
・自分はアダルトチルドレンではないかと思っている
・親から愛された実感が持てない
・自分は愛着障害ではないかと思っている
・この年齢では、今さら変わることなんてできないと思い込んでいる
・夫婦2人でいるのに孤独を感じる
・離婚が頭をよぎる
後悔や不安、不満、人間関係のマイナスサイクルを
新しい生きがいを見つけるポジティブエネルギーに変えてしまう
具体的な方法に興味ありませんか?
離婚、うつ、毒親、資格ジプシーから人生を逆転させたカウンセラーによる
50代からの図太くラクに生きる人間関係3つの法則
人間関係を改善させる具体的な方法を一緒に学んでいくためには、
カウンセラーである私とあなたとの相性がとても大切です。
その相性を確かめるために、私のプロフィールをご覧になってください。
<好奇心旺盛なちび助>
幼稚園に上がる前のちびっ子の頃は、好奇心旺盛な子どもだったそうです。
「なんでぇ?」「どうしてぇ?」が口癖で、回りの大人からは、「好奇心旺盛だなあ」と言われていたと親から聞きました。
<3人だと1人余る>
下2人とちょっと年の離れた3人姉妹の長女でした。家族で外出すると、父が次女の手を引き、母が末っ子の手を引き、私は1人にされてしまうんですね。
足の速い父達が先にどんどん進んでしまい、幼児の末っ子の手を引く母達が遅れてしまう。その間を、行ったり来たりしていました。
手をつないでもらえない、甘え足りない不満と母たちが追いつけなくて迷子になってまうのではないかという不安。
母も「お父さんたら、どんどん先に行っちゃうんだから」と文句を言っていましたしね。
私もそのことは父に言ったことはあると思うのですが、強くは言えなかった。父は子煩悩な人でしたが、仕事が忙しすぎて、特に私が幼児の頃は本当に家にいない人でした。
<集団になじめない幼稚園児>
幼稚園に上がると、仲良しの女の子と2人だけでいつも一緒にいて、集団にはなじめない子でした。
<1人でいたいわけではないのに、はみ出してしまう>
それは小学生になってからも変わりませんでした。
よく見かけるでしょう、女の子が仲良しグループを作って、トイレにも集団で行く姿。
でも、ああいうことがぜんぜん出来なくて。仲間に誘ってもらえなかったし。
まあ、たとえ誘ってもらえても、トイレにぞろぞろついていくなんて、やりたくなかったんですけどね。
トイレ行列は別として、別に1人で居たいわけじゃない。
休み時間にぽつんと自分の席にいるのは、寂しかった。
ところが、家では陽気でお茶目。部屋の襖を開けて舞台に登場したつもりで歌いながら踊ったりして、親からは内弁慶と言われていました。
今思えば、他の子どもはいつの間にか友達の作り方を身につけていたらしいのに、それがさっぱり分からなかったんです。
親の仕事の都合で、幼稚園卒園と同時に遠い県から引っ越してきたこと、お受験で入るような学校にうっかり合格してしまったことで、地域から切り離されていたこともたぶん影響していたんでしょう。
地域には子ども会というものがあったのですが、「お宅は公立小学校に行っていないから」と言われて入れてもらえなかったし、同級生は皆遠方から通っていました。
<素直な子>
学校の出来は悪かったのですが、成績表には常に「素直だ」と書かれていました。「向上心がある」とも。
今思えば、単に権威のある人の言いなり、劣等感の表れだった気もします。
<ゴミ箱な日々>
家がゴミ屋敷だったという話じゃありません。
うちは良い家庭だと信じていました。父親がしっかりしていて、母親が夫を信頼していて。
両親がけんかしている姿なんて、見たことがありませんでした。親戚の悪口なんていうのも、聞いたことが無い。(結婚後、夫の実家で、親しく行き来している親戚の悪口を耳にして、びっくりしました。)
でも、父親と母親と、両方からそれぞれに対する愚痴を聞かされていました。
何十年も経った後で、これを聞かされていたのは長子の私だけだったと言うことが分かりました。
長子っていろいろ損をしますね。
※ 結婚生活が破綻した後で、心理学を学んでいてgabage can(ゴミ箱)という言葉を知りました。
他者の不平不満の聞き役にされてしまう人という意味です。
基本的に、女の子は父親が好きですよね。男の子はその逆。
でも、自分のお手本は同性の親になりがちですよね。
母親に対する愚痴を尊敬する父親から聞かされて育って、女の子がどんな風に育つと父は思ってたんでしょうか。
反面教師ってことばがありますけど、そういう風にできる人もいれば、目の前のお手本をそのままなぞるしかできない人もいますよね。
そして、私は後者だったんです。
<男の子が欲しかった話>
母が私を生んだときの話です。
「お父さんは、病室に来たとき、『なんだ、女か』と言ったんだよ。」と母が言いました。
単純に、母は父が労ってくれなかったことに対するわだかまりを愚痴りたかったのでしょう。
でも、相手が間違っていないでしょうか。
自分ではどうしようもない理由で、私は生まれたときから父を失望させていたのだという話を聞かされて、どんなに私が傷ついたことか。
そして、そんな余計なことを口に出した母のことは、何という愚かで、想像力が無くて、私のことを思いやれない人なのかと軽蔑しました。軽蔑することで、自分を守ろうとしたのです。
でも、同性の親が手本にならなくて、思春期の私はぐちゃぐちゃでした。
<女の子らしい長男坊>
父の私への態度も矛盾していました。
スポーツ万能の父は、私にも同様の水準を求めて、スキーや乗馬に連れ出しました。しかし、三人姉妹に同時に始めさせようとしました。
運動は何でも、小さい頃から始めた方が上達します。元々ひょろっとした体格で、筋肉が身長にふさわしく発達していなかった私は、一番年長なのに一番スポーツが出来ないという劣等感を増す結果になりました。
私の机に、ソンブレロをかぶったメキシコ人風の人形が置いてありました。首の部分がバネになっていて、つつくとユラユラ揺れるようになっています。
父が「勉強に疲れたとき、ちょっとこれを揺らして骨休みをするなんて、良いじゃないか。」とニッコリ言いました。
私は、ひょっこりひょうたん島のドン・ガバチョそっくりのその人形が全然好きではなかったし、わざとらしい女の子らしさを要求されている、女の子らしさが足りないと非難されていると感じました。
<たった1つ、父が褒めた母の美点>
こんな風に、母の欠点について父から愚痴を聞かされていたのですが、ある時、父はこんなことを言いました。
「もし、万一、明日からお父さんに仕事が無いというようなことになっても、お母さんは平然としているだろう。ああいう強さは、俺には無いなあ。」
「私にはそんな強さは無い・・・。」とへこんでしまいました。
<家に空飛ぶ円盤が>
やっぱり仲良しグループには入れない中学生でした。
この頃、よく夢を見ました。
家の二階にいる時、家の上空に空飛ぶ円盤が現れたのです。(自分の位置からは見えない状況でも分かるんですよね、夢ですから。)
2階の窓から1階の屋根瓦を踏んで庭に降り、すぐ外のバス通りへ逃げ出しました。バス通りを裸足で走りながら振り返ると、空飛ぶ円盤と家とが夜の街の中で浮き上がって見えました。
この時感じていたのは、家族を残して自分だけ逃げたという、罪悪感でした。
と同時に、自分は臆病者だという意識・・・。
同級の女の子1人だけに、この夢の話をしたことがあります。彼女は一言、「それは親父から逃げ出したいんだよ。」と言いました。
この同級生が当時どんな家庭環境にあったのか、十数年後に初めて知ることになります・・・。
<心理学への興味>
「変わっているね」と言われることが何度もあったので、心理学というものに興味を持ちました。
そういうものを学べば、私がどう変わっているのか、そもそも「変わっていない」他の人が何を考えているのかが分かると思ったんです。
手に取ったのは、岩波新書の『精神分析入門』。フロイトですね。背伸びする年頃ですからね。同級生にも読んでいる子は何人もいました。
でも、知りたかったことは分かりませんでした。
読み物としては、例えば「馬の夢を見たら、それは実は・・・」なんていうのは面白かったんですけどね。
まだ中学生で、何にも知らない年齢ですから、けっこう真に受けてました。さすがに、「今時、馬は街中にいないだろう!」というツッコミはしてましたが。
<職場結婚>
あるとき、人事の人が、新入社員を私のいた部署に連れてきました。顔を見た瞬間、恥ずかしいけど、「あっ、好み!」って思ったんですよね。その後のことを思うと、バカそのものですが。
今思えば、結婚することにしたのは、やはり強くて立派な父親から離れることが一番の目的だったと思います。
人生をより充実させるためとか、この人と人生の新しいステージに進むとかいう意識は全然ありませんでした。
父は、この結婚に反対しました。
私は自室に戻り、涙を流しながら、くだらないことを考えていました。
家を出るのに、服を持って行かなくては。自分で買ったのではない服でも、少しは持って行って良いのではないかしら?
母は、様子を見に来て、父に「部屋で泣いていましたよ。」と告げたそうです。
父は折れました。
<初めての里帰り>
家を離れてたった数ヶ月でしたが、父も母も白髪が増えて老けたように私には感じられました。
元々、父が戦地から復員してからの結婚なので、当時としては、私は両親ともかなり年をとってからの子どもだったのです。
新婚生活を送る団地に戻ってきたとき、「お父さんもお母さんもあんなに年をとって・・・」と話し始めると、嗚咽が止まりませんでした。
ところが、夫が口にしたのは、「もっとしっかりしていると思っていたんだがな。」という一言でした。
「そうか、この人には正直な気持ちを話すことはできないのだな。」
「しっかりしていないと、愛されない、見捨てられるのだ。」
そういうことを私は学びました。
<電子レンジが買ってもらえない>
「会社を辞めてほしい。こんなままだと、子どもも出来ないだろう?」と夫から言われて、退職しました。
子どもが持てないと言われて、涙が流れました。
こんなままというのは、こういうことです。
その当時は、団地の近所のスーパーも夜7時には閉まってしまい、働いていると平日は買い物もできなかったんです。
週末にまとめて買い物して、でも肉は小分けして冷凍するとか、今だったら誰でも手に入る知識が当時はまだ無くて。
週末にまとめて調理して平日は解凍するということをしている同僚女性も1人だけいましたが、当時はすごく先進的なやりかたでした。
それに、そのやり方をすると、疲れていて土曜は2人とも朝早く起きられないので、洗濯、買い物、掃除で終わってしまい、日曜日を一日使って一週間分料理することになります。
夫は、週末に出かけないと休んだ気がしないと言っていました。
そして、夫は電子レンジを買ってくれなかった。
おかしいですよね。私も正社員だったんだから、自分のお給料で買えば良かったんです。
でも、私の母は家電を一切購入したことが無かった。全部、父が決めて、買っていたんです。
こういうと、父が意地悪みたいでしょ?
そうじゃなくて、洗濯機も掃除機も冷蔵庫も、母の家事が楽になるようなものは、商品が世の中に出始めるとすぐに、父は買ってきました。
だから、私は、大物でなくても、家電製品というものは夫が購入する物だと思い込んでいたんです、今思えば、ですが。
<社会から切り離されて>
退職直後は、引き継ぎしきれなかった細々としたことについて、時々同僚から電話がありました。そのうち、当然ですが、電話はこなくなりました。
そうすると、昔の団地サイズの2DKに昼間、一人きりです。
多くの女性はこんな時、実家のお母さんに電話するんじゃないかと思うんですけど。私はね・・・。
この時期、通販カタログを次々と申し込みました。社会的に存在していない私、でも通販会社は私の存在を知ってくれている。そんな気持ちでした。
<生理が止まった、だけど>
退職したあと、生理が止まりました。団地のすぐ近くに産婦人科医院があったので、飛んでいきました。
結果は妊娠ではありませんでした。
診察室から出た時、貧血を起こして倒れてしまいました。
こんなにショックだなんて、自分では全く予想していませんでした。
自分のことって、案外分からないものなんですね。
妊娠していないのに止まった生理ですが、回復しませんでした。
そのまま、生理が戻る様に治療を受けることになりました。
<通院中にまた別の病気>
その産婦人科医院に通い続けながら、生命保険会社の外交員になりました。研修の後、上司にくっついてあちこち出歩いているうちに、夜間頻尿でろくに眠れなくなりました。
「これはきっと膀胱炎だな」と思ったくせに、すぐに病院に行くことをせずに我慢して3日、ついに決意して泌尿器科に行きました。
お医者さんには「なぜ早く来なかったの。」と叱られました。
なぜでしょうね。私は、体調が悪くても、つい我慢してしまうんです。
すぐ病院に行かなかったことで、膀胱炎よりも悪化した腎盂腎炎になっていました。服薬して1週間ずっと寝ている羽目になりました。支店長からは引き留められましたが、私は退職しました。
<服薬の影響>
腎盂腎炎から回復した後、妊娠が分かりました。
産婦人科のおじいさん先生に、内服していた薬の胎児への影響を尋ねました。私の年代だと、サリドマイド事件のことが頭に浮かんだからです。
先生は、「まず、影響は無いだろう。」と言いましたが、私は夫に状況を説明し、その時、「こういう恐れがあるけれども、しっかりと育てていこうと思う。」と宣言しました。
夫は、何も言わず、背中を丸めて聞いていました。
<セックスレス>
幸い、健康な女の子を出産することができました。私はうれしくて仕方なかった。
子どもは順調に成長していきました。
でも、私自身は、気分がだんだんと落ち込んでいくのが分かりました。
「これはマタニティーブルーというものじゃないかしら?」なんて思ったりもしましたが、本当はセックスレスのせいだと知っていました。
そっとそのことについて、夫に言ってみましたが、「それでどう思うの?」と訊かれて、「いえ別に・・・。」と言ってしまいました。
もちろん、そのままになりました。
<お先真っ暗>
子どもの世話はしていましたが、だんだん家事が手につかなくなってきました。特に夕飯の支度が問題でした。
なぜなら、夕飯の支度を始めなければならない時間帯、夕方になると、気分が落ち着かなくなったからです。
訳もなく焦燥感でいっぱいになり、家にいられなくなりました。
おんぶ紐で子どもを背負い、3階の部屋から下へ降ります。
スーパーの方へは足が向かず、何の関係もない方向へ歩き続けました。止まることもできないのです。
でも、方向音痴なので、帰り道が分からなくならないように横道に入らないようにしなくてはとは思っていました。バスやトラックがブンブン走る基幹道路に沿って歩き続けました。
それでも、日がとっぷりと落ちたら帰らなければなりません。
気づいたら、小さな工務店かなにかの前に来ていました。周りは真っ暗でしたが、お店の中から外へ光が漏れていました。お店の外にワゴン車が止めてあって、二、三人の男女が道端に立って談笑していました。
この人たちは、自分のいる場所がどこなのか、この後どこへ行くべきか何をすべきか、ちゃんと分かっているんだ、だからこんな風に楽しそうに笑っているんだと思いました。
私は背中に眠ってしまった子どもを背負っているのにその暖かさは少しも感じられず、寒くて心は空虚でした。
一言で言うと、「お先真っ暗」と感じていました。
「なんだかお先真っ暗な感じがする。」と夫に言ってみましたが、返事もありませんでした。
<心の風邪?>
うつ病について、当時盛んに新聞、テレビで言われていたのは、「心の風邪」ということばでした。
この表現は、おそらく、「精神的に不調を感じたら、敷居を高く感じることなく、すぐ精神科を受診して欲しい」というお医者さん達の気持ちから使われたのでしょう。
でも、当時の私は、「自分はうつ病に罹っているのかもしれない」と思っていたのに、逆に、「まだ大丈夫。もっと悪くなったら病院に行こう。」と思っていました。
悪化したときには、自分で受診しに行こうと判断することも自分で体を動かすことも出来なくなるということが、私は分かっていなかったのです。
<日曜日の朝、夫は泣いた>
ある1月の日曜日の朝、目覚めた後、まだ二人とも布団の中にいました。子どもは熟睡しています。
夫の様子が変だと気がつきました。
しかし、以前夫は、「冬になると、気分が落ち込む」と言っていたので、またそれなのだと思いました。
ところが、夫は布団の中で寝たまま、浮気の告白を始めたのです。
聞いた瞬間、「なめられた」と思いました。
夫の浮気相手は、会社の同僚でした。ということは、私にとっても同僚です。アメリカの親会社とは違って、当時の日本支社は少人数なので、社員全員が顔見知りです。浮気相手も私のことを知っていたでしょう。
私は黙って起き上がり、身支度を始めました。
子どもは2歳にもなっていないので、父親の顔なんかすぐに忘れるでしょう。実家に戻ったら、近所が何か噂をするかもしれませんが、そんなことは全然平気だと思いました。
「どうするの?」と夫が訊いたので、「帰る。」と答えました。すると、夫が引き留めるのです。
そして、涙を流し始めました。
「泣きたいのは、こっちの方だ!」と心の中で叫びましたが、ばかばかしいことにもらい泣きして、二人で泣きました。夫は「ごめんね、ごめんね。」と泣きじゃくりました。
<無かったことにしましょう>
結局、私はなけなしの力を振り絞って、「無かったことにしましょう。」と言いました。
実家に帰ろうと思っていたのに、この時点で親に相談するという選択肢を忘れてしまいました。
「無かったことにする」なんて、絶対にしてはいけなかったのです。
夫は相手と別れると言いました。別れ話をすると言いました。
でも、1ヶ月経ってもまだ話をしていないと言いました。彼の帰宅時刻が気になるようになりました。
子どもにかまけていた時間をもっと家事に使おうとしました。どうしても、母のことを「家事が出来ない、片付けや掃除が出来ない」と批評した父の言葉が頭にこびりついていました。
「私が家事が出来ないから、夫が浮気した。」という全く現実離れした、意味の無い方程式が出来上がっていました。
古い団地の狭い、光の入らない玄関で夫の靴を磨きながら「私を裏切った人の靴なんか、なぜ私は磨いているのだろう?」という思いが頭をよぎりましたが、その先を考えるのは怖い気がしました。
<3ヶ月後>
その後、気持ちが不安定な日々が続きました。
夜、布団に入ると、なぜか涙があふれてきました。何かを考えているのでは無く、ただ、泣けてくるのでした。
夫はお気楽に、「何を泣いているの。」と言っていました。
やっと落ち着いた頃には3ヶ月が経過していました。
その頃、新聞の読者投稿欄に、やはり夫に浮気された主婦の投稿が載っていました。その人の夫も、やはり彼女に許しを請うたそうです。そして同じく3ヶ月が過ぎていました。
その女性は「許す気持ちになれない。」と書いていました。私は「3ヶ月経っても許せないなら、離婚するしかないのでは。」と思いました。
私は大丈夫だと思っていました。いったい何が大丈夫なのでしょうか。
<2人目の妊娠と引っ越し>
夫は別れたと言い、私は信じました。
2人目を妊娠したことが分かると、夫は分譲マンションを購入して引っ越したいと言い出しました。
彼の理屈はこうでした。会社での業務に関連した国家資格を取りたい。そのためには、勉強するスペースが必要だ。この2DKでは場所が足りない。
全然めちゃくちゃな理屈だし、マンション購入のためには莫大な借金が必要です。
現在から振り返ると、不動産バブルが始まる直前で、世の中には「財テク」という新しい言葉があふれかえっていました。
アパート住まいから出発し、頭金を貯めて分譲マンションを購入、さらにそれを売って土地付き一戸建てを購入するというサラリーマン出世双六のようなことが盛んに喧伝されていた時代なのです。
年末に分厚い家計簿をおまけにつけるような、典型的な主婦向け雑誌にすら、こういう記事が盛んに載せられていました。
私はそういう記事をおとぎ話のように思って読んでいました。自分達が年収の何倍という借金を負うつもりは全くなかったのですが、夫は違いました。
そう言えば、まだ子どもが出来る前、彼は1ヶ月で自分の月収以上の金額を使ったことがありました。当時は2人とも働いていたからこそ、生活が成り立ったのです。
<甘え下手>
マンションに引っ越し後、会社の同僚を招いて食事を振る舞う会を2回開催しました。一度に6人くらいしか呼べなかったからです。同僚達が家を買ったときに、自分も招かれたんだからという理屈です。私はお呼ばれしていないんですけど。
当時、誰からの援助も無く、30代に入ったばかりで分譲マンションを購入するのは、かなり若い方でした。招いた同僚の中には、そのことをチヤホヤする人もいました。
実は、マンションを購入すると報告したとき、2人の父親からそれぞれ違った反応がありました。
夫の父親からは、マンションの購入によって他県に引っ越すことに激しい抵抗がありました。電話がかかってきて、嫁の私が言い出したのかと責められました。
私の父親は、頭金を援助しようかと言いました。私は何も予期していなかったので嬉しかったのですが、これを受け取るのは夫が嫌がるのではないかと忖度して断りました。
私は、学生時代母に指摘されたように、甘えることが下手でした。「おまえはお父さんに甘えることが下手だねえ。○○ちゃん(すぐ下の妹)を見なさい。」と母に言われたことがあります。
せっかく父の方から提案してくれたのに、私は受け取りベタだったのです。
<また・・・>
順調だったのは、わずか数年でした。夫は国家試験に落ち続けました。
今思えば、落ちるに決まっている、よくあるパターンにはまっていました。受かる人は、勉強する時間を毎日でも毎週末でも捻出します。受からない人は、教科書がほこりをかぶっています。普段サボっているくせに、本番の試験数ヶ月前の受験申し込み時期になってから、慌てて詰め込もうとするのです。
やがて、夫は会社の同部門の同僚や後輩を集めて、勉強会を催すと言い出しました。その人達は国家試験受験には全然及ばないレベルだとのことでしたから、私は受験を諦めたのかと思っていました。
夫の帰宅はどんどん遅くなり、週末も勉強会と称して出かけるようになり、土曜も日曜もほとんどうちにいなくなりました。
<無言電話>
電話がかかってきて、私がとると無言のまま切れるということが起きるようになりました。
夫の会社の同僚からの年賀状に妙なものが混じっていました。
夫の帰宅時間がさらに遅くなりました・・・。
<クビ?>
会社では日本人社長がまたクビになり、アメリカ本社から人が送り込まれてきました。英語が得意ではない夫は、苦労しているようでした。
社員の入れ替わりがさらに激しくなり、夫をかわいがってくれた上司も、お気に入りの課長を連れて転職してしまいました。
クビ騒動は、新しい上司と飲んだことが原因でした。上司は、夫と二人だけの親睦だったのに、接待として会社の経費で落とそうとしたのです。夫は、それはまずいと思ったと後で私に言いましたが、毅然とした態度はとれませんでした。
ある晩、帰宅した夫は憔悴していました。
どういう経緯か、経費のごまかしがアメリカ人社長の知るところとなり、激しく叱責されたとのことでした。社長は、「君のことを信用していたのに。」と言い、クビだと宣告されたと夫は言いました。
驚きましたが、すぐに抵抗しなければ、本当にこのままクビになってしまうと思いました。
新しい上司は勤務の傍ら、自分の会社を別に持っているので、クビになろうがなんともないのだと夫は言いました。
こんな時に、人のことはどうでも良いのです。
英語の会話で言い訳をするのは夫には難しいので、手紙を書くように勧めました。手紙なら辞書が使えます。
彼のこれまでの業績をいちいち挙げ、現在の社内のリソースについて分析し、今彼を手放しては、業績悪化につながると述べました。私が手紙の構成を決め、英文を添削しました。
拙い文章でも概要は伝わったのか、渋い顔をしてはいたものの、社長は夫のクビを撤回してくれました。
騒動の元を作った新しい上司は、飄々と辞めていったそうです。
<転職続き>
夫は、会社を辞めました。ヘッドハンターが接触してきたのだそうです。でも、それは会社が裏で手を回しているのだとも言いました。リストラを自分達の手を汚さずヘッドハンティング会社にさせるのだと。
ヘッドハンターが提案してきた会社のうち、日本の会社には落とされ、ヨーロッパの日本支社に採用されました。
こぢんまりとした会社で、社内の人間関係がまるでテレビの恋愛トレンディドラマのようでした。
なぜ部外者の私がそんなことを知っているかというと、夫が毎日、話したからです。今日は誰と誰がこんな話をした、やっぱりAはBに気がある、CはDを振ったらしい等々・・・。
他人事として聞いている分には、笑っていられました。心の中では、「なぜ、そんなに他人の色恋沙汰に興味があるのかしら。どういうつもりで私にそういう話をするのかしら?前の会社の時にはこんなに話さなかったのに。」と思いながら、口に出せませんでした。
やがて、社内では1人の女性を巡ってゴタゴタ続きなのだということが分かってきました。
そして、夫の話の内容が変わってきました。「やっぱり、EはFのことが好きらしい・・・。」
Eとは例の女性、Fは日本支社長です。Fは、夫が不在の時にうちに電話をかけてきたことがありました。とても感じの良い人で、うちの子ども達にと夫を経由してぬいぐるみをプレゼントしてくれました。夫も、彼はとても魅力のある人で、この人には力を貸したいと思わされる人だと言っていました。
EもFも独身でしたから、なぜ夫が二人が付き合っていることにそんなにがっかりするのか、嫌な気持ちがしました。
嫉妬を感じましたが、それを口に出来ませんでした。口に出して、その後けんかになるのが怖かったからです。
私は物わかりの良いふりを続け、笑って社内の噂話を聞き続けました。
そして、夫はまた転職しました。私は話が決まってから聞かされました。
今度は日本の公的な機関で、勤務場所は関東と本州の端との2か所がありました。本州の端の方は、周りに人家の無い、非常に辺鄙な場所にあるので、そこに配属されるのは嫌がられているようだと夫は話しました。ちょうど、今いる人が関東に戻ってくる時期だとも。
「新人だから、俺はそっちに配属されるかも。」という夫に、私は家族みんなで引っ越そうと言いましたが、夫は独身寮しか無いからと言って、赴任が決まったら、単身赴任すると言いました。
結果的に、本州の端には別の人が行くことになりました。
<心理学との再びの出会い>
たまたま見たテレビ番組でやっていた性格分析で、私は落ち込みました。
その分析では、私は戦うことを知らず、易きに流れ、楽しみを求めることしか知らない人間で、その分類には「娼婦」という名前がついていたのです。
<明日、出て行く>
「話がある。」と言われて椅子に腰掛けました。また、転職の話かと思いました。
「明日、出て行くよ。」といきなり言われて、言葉を失いました。
夫はさらに、「これから世帯が2つになってお金がかかるから、毎月○○万円、あなたは働く必要があるよ。」
私は言葉も無く、ただ後から後から、涙が流れてくるだけでした。
夫が、「結婚してから、泣かせてばかりだったね。」と言いました。
「私の何がいけなかったの?」と尋ねると、「言うと、悪口になるから」と言うのです。そして、「あなたは甘えるのが下手だね。」「太っちゃったし。」「なんだか、姉と弟みたいになっているのが嫌だった。」
だったら、もっとしっかりしてくれていたら良かったじゃないの! と心の中で叫びました。あなたがしっかりしていないのが私のせいだとでも言うの?
翌朝、夫は身の回りのものを少し車に積んで出て行きました。行き先は他県ですが、車で数時間で行ける距離です。
着いたと思われる頃、夫から電話がありました。着いたよ、途中で乱暴な運転の車が割り込んできて、事故を起こすかと思ったよと笑っていました。
その瞬間、「事故に遭えば良かったのに!」と思ったことは忘れません。
そして、いったいどういうつもりで電話してきたのか、夫は全く謎の人でした。
<父の言葉>
夫が出て行った朝、私は実家に電話しました。母が電話に出たので、事態を説明しようとしましたが、涙があふれて、上手く声が出ません。
しかし、事情を聞いた母は、「どうせまた、あんたが何か言ったんでしょう。」と言い放ちました。あまりの言葉に声が詰まり、やっとのことで「どうしてそんなことを言うの」と言いました。
たったこれだけでも口に出すのは、私にとっては、勇気を振り絞る必要がありました。
さすがに母も、電話越しに私の様子がおかしいのに気づいたらしく、父に受話器を渡しました。
父は非常に驚いた様子で、どうしてそんなになるまで相談しなかったのだと言いました。
鈍いと言われればその通りなのでしょうが、元々、私は世の中の人々とは感覚がずれていたのだと思います。
私は両親の愚痴は聞かされましたが、愚痴をこぼしながらも、子どものいる家庭というものは二人ともしっかり運営してました。だから、互いに多少の不満はあっても、結婚というものはそういうものだと信じていました。
いったん、結婚するという約束をしたからには、私は夫に不満があっても結婚を続けるのだから、夫も当然そう思っているはずだという思い込みがありました。
もし、ひとに相談するということが私にとって普通のことであれば、そして父の言うとおり、相談相手が実家の家族であれば、事態は変わっていたのかもしれません。
子ども達が父親無しに成長することも無かったのかもしれません。
<味方>
妹たちは、事情を知って二人とも驚きましたが、私の味方になってくれました。下の妹が「何があっても、絶対味方だからね。」と言ってくれたのは忘れられません。
これまであまり電話で話すことが無かった3姉妹ですが、これ以来、電話する機会が増えました。
つい長話になってしまって謝ると、すぐ下の妹が「○○さん(妹の旦那様。二人はとても仲良し。)から、『お義姉さんは大変なんだから、良いよ、良いよ。話を聞いてあげなさい。』と言われているから、大丈夫。」と言ってくれました。
<母は冷たい>
父と妹達は味方になってくれましたが、残念ながら、母は味方になってくれませんでした。
<職探しに走る>
夫が出て行った翌日の月曜日、新聞の折り込み広告を見て仕事を探しました。
団地の中に学童保育の施設があったので、相談に行きましたが、「夫が単身赴任で私が働かなければならなくなった」と嘘をつきました。嘘をつくことも、私にはとても大きな抵抗があり、たちまち涙が出て、うまく話せなくなりました。
担当者の男性は、はっきりうんざりとした顔をしました。他人の話をきちんと聞く訓練を受けた人なんて、本当にいないものです。そして、子ども達は引き受けてもらえませんでした。
結局、最寄り駅近くのビルに店舗を構える会社が、パートとして雇ってくれました。そこがだめなら、二駅離れた所に面接を受けに行くつもりでいましたから、本当にありがたかったです。
<私は意外に強い>
夫が出て行ってから丸3日、何も食べられませんでした。体重が数キロ落ちました。
バカな話ですが、このとき、ついでにこのまま体重を落とそうと思いました。
そして、職探しを即始めたことと、減量のことを思いついたことで、私は気づきました。
私は自分で思っていたよりも、強いのかもしれない。父が言った、母の強さを私も実は受け継いでいるのかもしれない、と。
<子ども達>
子ども達には、パパは単身赴任することになったと話しました。涙が抑えきれませんでした。でも、子ども達は小さすぎて、きょとんとしていました。
夫は子ども達に関心が無いとはっきり言いました。母子3人がまるごと捨てられたのだということを、子ども達に知られることを私は恐れました。
子ども達がどんなに傷つくだろうということと同時に、事情を知った子ども達がもし荒れたら、どうしたらよいのか、私には全く自信がありませんでした。
もし万が一、子ども達が荒れた時は誰かに相談すれば良いということは、思いつきませんでした。
<資格ジプシー>
パートさんと呼ばれていても、実際は正社員と同時間同じ内容の仕事をしていました。それなのに、年収が全然違います。こんなの、絶対おかしいと思いました。
私が知っているのは、お勉強でなんとかするというパターンだけでした。
たまたま雑誌で見かけた国家資格の勉強を始めました。合格率10%だから受かりやすいと書いてあったのを真に受けました。
実際は、散々手こずらされました。そのうち、合格すること自体が目的になってしまいました。
合格したとき、合格率は7%に下がっていました。資格学校の先生は、「合格したら自信がつくよ。」と言ったのに、自信は全くつきませんでした。
合格するまでの間に法改正があり、資格を行使するには、有資格者団体に加入することが義務づけられていました。
団体に加入すると、メンバーはみな大変な勉強家でした。
また、その資格で許可されている業務範囲は幅広く、隣接した領域にはたくさんの民間資格がありました。 団体メンバーは、隣接領域の民間資格を次々と取得していました。
私も焦って、次々と資格勉強を続けました。いくつも関連資格を取りましたが、自信はさっぱりつきませんでした。
<心理学との3度目の出会い>
資格勉強を続けながら、心理学への関心が頭をもたげました。
子どもの頃、同級生達がどういうふうに感じているのか、さっぱり分からなかった私。そして、いまだになんだかよく分からないままの夫という人間。
別居状態のままの夫は、私が合格したことを知ると、すごいねとは言いましたが、所轄官庁が国家公務員試験の合格ランクの低い人間が行くところだと言いました。
彼自身は国家公務員ではないどころか、公務員試験を受けたことすらないのです。そして、まだ例の国家試験に合格していませんでした。
そして、夫はまた転職していました。
<お役所>
勝手に離婚届を出されて受理されてしまうことが怖かったので、離婚について調べました。離婚届の受理をしないようにしてもらう届け出があることを知って、その手続きをしました。
窓口の女性は、余計なことは一言も言いませんでした。
でも、その表情やしぐさから、私の味方だと感じて、嬉しかったです。この届け出は1回出せば終わりというものではないので、その後も何度も通いましたが、そのたびに、淡々と受付をしてくれました。
後に、同じ地域に住んでいる女性から聞いたのですが、同じ役所の男性職員は全然違ったそうです。
彼女は、窓口でとある申請のための用紙を申し込んだそうです。すると、窓口の男性職員は室内の他の職員を振り向いて、なんと、「○○の用紙はどこだっけ?」と大声で訊いたのです。市役所の職員だけではなく、その時室内にいた人たち全員が振り返って彼女を見たそうです。
用紙は受け取れたものの、彼女は「恥ずかしくて、もう二度とあそこには行けない」と言って、その申請ができなかったと言っていました。
<子どもが引きこもる>
上の子は高校を出るとき、進学しないと言いました。入学以来、学年3位から落ちたことが無かったのですが。
学校は入学の時、「我が校は出口保障をします。」と言いましたが、子どもには何も働きかけてくれませんでした。
そして、そのまま上の子は4年間うちにいました。
<離婚を言い出される>
結局、別居状態は10年を超え、ある日突然、電話があって離婚したいと言われました。けじめをつけたいと言われました。
けじめとは何でしょうか。もし、言うのならば私の方ではないでしょうか。
その後、子ども達二人ともが夫に呼び出されました。夫がどういう風に話したか、子ども達は言いませんでした。
夫が家を出て行ったとき小学校3年生だった上の子は、実は成長するにつれて薄々気づいていたと言いました。小学校に上がる直前だった下の子どもは「もうパパの顔さえよく覚えていない。自分だけ、知らなかったなんて。そして大学受験の大変な今、こんなことを言われるなんて。」と言いました。3人で抱き合って泣きました。
<裁判>
私は民事事件の被告になりました。夫が私を訴えたからです。
離婚裁判は、先に調停をしてからでないと起こせません。裁判所から通知が来て、調停に地裁まで通いました。
調停委員なんて、お気楽なものだと思いました。私が思わず「私は独りぼっちだ。」と泣いてしまったとき、「お子さん達がいるじゃないの、味方になってくれますよ。」と言いました。
しかし、私は子ども達に、3人が捨てられた上での別居であることを、それまで一言も告げていません。それなのに、調停委員は子ども達が知っているのが当然という前提で話します。
私と同じように離婚を突きつけられた母親達は、皆べらべらと子どもにも愚痴を垂れ流すのでしょうか?そんな人は少数派で、むしろ自分一人で抱え込んで苦しんでいるのではないでしょうか。
また、裁判官も「悪い条件ではないと思うけどね。」と言って、有責配偶者からの離婚調停に全然抵抗が無い様子なのが、腹立たしさの極みでした。
調停が不調に終わると、夫が雇った弁護士から電話があって、離婚の意思について確認がありました。そして、離婚に応じないと訴訟を起こされますよと警告されました。そしてその通りになったわけです。
<持つべきものは>
裁判と聞いて、思い出したのが、中学の同級生です。私の空飛ぶ円盤の夢の話を聞いてくれた彼女です。
彼女が、裁判を経由して離婚したということは知っていました。その時、弁護士を使ったと聞いていました。
最後に会ってから何年も経っていたので、連絡するのはとても気が引けました。でも、思い切って電話をかけました。彼女は「おう、どうした」と中学生時代と全く変わらぬ豪快な調子で答えてくれました。
そして、弁護士事務所を教えてくれて、さらに、一緒に行こうと言ってくれました。
調停が始まった段階で、父には報告していました。父は、「こうなっては条件闘争だ。」と言って、最終的に弁護士事務所から請求された100万円を払ってくれました。
<弁護士>
離婚が成立したとき、担当した弁護士と話がしたいと思ったのですが、彼は「それでは、この後用があるので!」とさっさと行ってしまいました。
裁判官といい、弁護士といい、頭はものすごく良いのでしょうが、専門家の男性とは、女性の気持ちには無頓着なんだなぁとがっかりしました。
この数年後、私はまた訴訟に巻き込まれ、この弁護士を巻き込むことになったのですが、それはまた別の話です。
<体を壊す>
離婚が法的に成立したとき、私は非常に忙しい状態でした。例の国家資格のおかげで声がかかり、臨時に国家公務員として働いていました。勤務地まで往復3時間かかる生活が始まりました。
朝は8時過ぎには、事務所の鍵が開くのを同僚と並んで待ちました。帰りは霞ヶ関の本庁からの電話を待ちました。夜9時の段階で帰宅していた同僚について、私は同僚の代わりに「なぜ帰っちゃうんですか!?」と本庁の担当者に呆れられました。
新婚の頃過ごした団地とは違い、最寄り駅前のスーパーは夜11時閉店でしたが、ギリギリに駆け込む生活でした。
しかし、食欲が全然湧かないのです。夕食として、生で食べられる金柑を1パック買って、それも食べ残しました。
下の子は大学生になったとき、通学の利便のために家を出ました。
引きこもっていた上の子は、離婚成立の直後に、引きこもりから脱して家を出て行きました。
突然、独り暮らしになり、世話を焼く相手がいなくなりました。私は空っぽになりました。
食生活がどんなにデタラメでも、誰も指摘してくれません。
最初の半年で2キロ太り、次の1年半で8キロ落ちました。
契約期間が終わっても食欲の無い状態は続き、それが普通になりました。体重は落ち続け、気づくと、大量に髪の毛が抜け始めました。
<たった一言だけど>
「もっと温かい母親が欲しかった。」思わず口をついて出た言葉でした。
それは、心の構造を模式図にして学ぶ講座が終わった時でした。心の模式図が人によってどんなに異なるか、数々の例が挙げられ、説明された講座でした。
すると、講師の先生が「俺もそう思うよ。」と一言、返してくれたのです。
そういえば、先生は、末子なのに長男というお立場でした。私とは逆に、ご自分のお母様に「長男なのだからこうでなければ、ああでなければ」と責められて育った方でした。
心の模式図の例としてご自分のお母様を挙げられ、優しいお母さんらしさがほとんど無い方だったとお話してくださったことがありました。
そういう方が、もう配偶者を得て中年になっているのに、まだ「俺もそう思うよ。」とおっしゃった。
深く慰められました。
もういい年なのだから、いまさら子どもの頃のことなんて口に出すのは恥ずかしいと思っていました。
でも、同じような思いをしている人が他にもいると知ることは、慰めになるのだと初めて知ったのでした。
心理学の講座では、講師の先生方も受講生のみんなも、それぞれの個性を当然のものとして受け止めてくれました。
私は、人の顔色ばかりうかがう必要は無いのだと知りました。お茶目で陽気で踊ったり歌ったりが大好きだった幼い頃の自分で良いのだと分かったのです。
私は、幼い頃の自分を心の奥から取り出して、謝りました。
ごめんね、もっと早く気づいていれば良かったね。
<現在>
現在の私は、かつての私のように心が縮こまっている女性から、その埋もれている力を引き出すお手伝いをしています。
私のように、愛されているという実感を持てずに育つと、自分の力を信じることが出来ません。
でも、幼い頃に満足のいくほどかわいがってもらえなかったとしても、逆に、大人になった自分だからこそ取り戻すことが出来るのです。
<呪い>
幼い子どもは、親の言うことを何でも真に受けます。親の言葉はまるで呪文のように、子どもを縛り付けます。自分が何者であるのか、何が出来るのか、自分の価値について。
でも、当たり前の話ですが、親も人間なので全然完全ではありません。親の教えの中に、間違っていたことや、ネガティブな方向へ今も自分を引っ張っていくことがあれば、それに早く気づいて、修正しなければなりません。
そうでないと、いつまでも自分の中の埋もれている力に気づけないまま、周りの期待に応えようとするだけで疲れ切ってしまいます。
心のエネルギーが空っぽになると、こんなはずじゃなかった、一体何をしてきたのだろうという後悔と不満ばかりが募ってしまいます。
そして、気づくのが遅くなればなるほど、辛い、思い悩む時間が長くなってしまいます。その分、人生の残り時間が短くなるのです。こんなことは、私だけで十分です。
・仲の良い夫婦を見ると、みじめになってしまう
・子供が巣立っていくことで、空っぽになってしまった
・親子関係がうまくいっていない
・自分に自信が持てない
・ひとに頼ることが出来ず、つい1人で何とかしようと頑張ってしまう
・親であるとか経営者であるとか教師であるとかetc.の立場上ひとに頼れない
・強がりを強がりだと感じることさえ出来ない
・ああすれば良かった、こうしていればという後悔が頭の中をグルグルしている
・親から言われたことがいつまでも頭から消えない
・自分はアダルトチルドレンではないかと思っている
・親から愛された実感が持てない
・自分は愛着障害ではないかと思っている
・この年齢では、今さら変わることなんてできないと思い込んでいる
・夫婦2人でいるのに孤独を感じる
・離婚が頭をよぎる
このような方に好評をいただいています。
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